スピと宗教。〈その4〉
〈このシリーズはほぼ自分語りですが、興味あったら読んでください。〉
しばらく間が空きましたが、
続きです。
東日本の震災でメンタルガタガタになり、
自分の違和感に気付き
スピコミュから遠ざかった私。
コミュニティーから遠ざかったといっても、
スピリチュアルはむしろ勉強し直し
といった感じでした。
それに合わせて必要になってきたのが
「宗教観」でした。
私は西洋音楽を勉強していたので、
西洋音楽の成立ちに不可欠な「宗教」は
演奏する上でも必ず頭に入れておかなければならないもの
でもありました。
例えばこの曲
モーツァルト: レクイエム 「怒りの日」[ナクソス・クラシック・キュレーション #カッコイイ]
いろんなところで使われているので
聞いたことがある人も多いと思います。
「怒りの日」と呼ばれるのは、
歌詞が Dies irae (ラテン語で“怒りの日”)で始まるからです。
この Dies irae 怒りの日 とは、
神によって全ての人が生前の行いを裁かれる日、つまり、
『最後の審判の日』
のことです。
昔、子どもの頃教会に通っていて、最後の審判の話を聞いた時マジでビビりました(汗)
宗教的背景を含む意味をわかって演奏していないと、
なんか怒ってるっぽいだけの演奏になってしまう可能性もあります。
そこでなぜスピリチュアルと宗教観かというと、
大多数のスピ系ではあまり触れられていないだろうと推測しますが、
(スピリチュアルな人たちはわりと宗教を嫌う傾向にありますね。)
表面的な意味での「一神教」と「多神教」のそれぞれの信者の感覚って
大分違うんですよ。
だから、スピリチュアルの「一神教」的なロジックを
「多神教」的感覚で理解しているという
もはやそれって別の宗教じゃね?と思うんですね。
「そんなの楽しけりゃなんでもいいじゃ〜ん(笑)」
…という人の“失敗例”を自分を含めていくつも見ているので、
今は全然スピリチュアルとか楽しくないですけどね。
(他人がどうしようと勝手ですが。)
結局のところ音楽を演奏するのと同じで、
スピリチュアルの精度が高まるほどに、
本質の理解がどうしても必要になってくる
ということです。
ま、ぶっちゃけそれが面倒で
またスピから足を洗おうとしました。
理解できなすぎてしばらくお休みした
という言い方もできますが(笑)
でも人間って結局
スピリチュアル若しくは宗教的な思想に
行き着いてしまうんですよ。
〈続きます。〉
これ、面白かった。
知らん人が宗教(カルト)って勝手に決めるんだよ。
お茶会やります。
「こういう話をしているのでひょっとしてお茶会って異次元でやるの?」
というご質問をいただきましたが、
答えはいいえ。
実際のお茶会でございます。
異次元での集まりには金輪際参加しません。
(普通に考えてなんのことやらって話ですよね(笑))