*さけのさかな*

使命はお酒を愛し楽しく生きること。酒の肴に語るにはわりと珍味。

本当にやりたいこと。

 

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iPod nano 第6世代

現役でござます。

 

この小ささが大変便利でした。

今、このサイズ無いのよね。残念。

 

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今日の本題。

 

 

 

私の痛みや悩みって

 

“深く感動したい” からきているのだって初めて気付いた

 

 

 

どうしてわざわざ自分から傷つくと分かっていることをしてしまうのか

自分でも不思議だった。

 

結論を言うとそれはある種の欠乏感だった。

 

 

いつも何かが足りなくて 

漫画や本を読み漁る、

SNSを使いまくる、

 

他にも美味しいものを食べに行ったり、

観劇に行ったり。

 

でもそれらを続けていると

いつの間にか続けることが目的になってしまって、

疲れきってある日パタっと止める。 

 

 

“もう十分やった。もういい。”

 

“私、本当にコレがやりたかったんだろうか?”

  

 

何度もやっては辞め、やっては辞めしているうちに、

自分は何がしたいのか分からなくなってしまった。 

 

 

そんな何をしたいのか分からない中で目に付き出したのが、

 

今度は嫌なことにばかり意識を向けている自分だった。

 

どうして自分が嫌なことをわざわざするのか。

始めは“嫌なことは自分で解決できると思っているからだ”

と考えた。

 

けれども“物事を自分の思い通りにすることは難しい”のだから

諦めた方がいいと考えてみた。

 

それなのについ反射的に嫌なことを解決しようとするのか。

嫌なことから離れてもいい。

どうにかしようとしなくてもいい。

そんなふうに知ってさえも。

 

そして気付いた。 

 

解決することが目的ではなく

腹の底から「嫌だ」と感じることが目的なのではないかと。

 

 

自分の感情を揺さぶって、深く感じるのが目的だった。

 

 

嫌な目に遭うことは

実は手っ取り早く感情を揺さぶられるから

つい何度も繰り返してしまう。

 

ただし感情を揺さぶられても良い気分にはならない。

しかもジワジワ浸透して、

長い時間嫌な気分でいられる。 

 

 

自分でもなんで嫌なことをわざわざやるんだろう。

そうか、深く感動したかったからだ。 

 

でもこれって、

好きなことをやるのと同じじゃないのか。

 

つまり私は、好きなことでも嫌なことでも

やりたいことをやっているのではなく、

 

深く感動したいがためにやっているのだ。

 

 

 

なんと、動機は、

好きなことも嫌なことも全く同じだった。

 

 

 

私は常に深く感動したいと腹の底で思っているのだ。

 

自分の深いところで感動したいのだ。

 

自分の深いところに触れたい。

 

感動なんていつもいつも起こることじゃない

と無意識に決め付けていた。 

 

私の行動は感動に準ずる。

 

怒りが深くなってしまうのもそのため。

怒りも喜びも深いところで感じたいのだ。 

 

 

 

私が本当にやりたいことがわかった。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

note 更新しました。

 

https://note.com/2ya_ri/n/ne06181f7046d

 

もっと早く書けたらもっと多くの人のを書けるんだけど、

なかなかそうはいかなくて歯痒いわ。